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2008年04月12日

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2008年04月12日(土)、グループ
広見林道~コアカ谷~京ツカ山
(出発帰着:甲佐家屋敷跡)

このページの目次です

はじめに

2008年04月12日(土)、グループ
五里山系:
広見林道~コアカ谷~京ツカ山
(出発帰着:甲佐家屋敷跡)

参考資料

  • 西村保夫さん山行記(2008年4月12日)
    「心に山と故里ありて」6年ぶりの京塚山三角点
  • 桑原良敏著「西中国山地」溪水社(初版1982年)五里山p.114-116

京ツカ山、五里山を始めとする県境主稜は平坦な山頂を持つ山々である。三角点のある京ツカ山1129.4m峯(Web作者注-1129.7mの誤記?)も小さな丘に過ぎないので、これらの山頂を目的に登るという人はほとんどいない。積雪期にスキー・ツアーに出かけたり、残雪期に吉和中津谷より〈オサカエ〉に出て、主稜を恐羅漢山までの縦走ルートとして通っているようである。無雪期は一面のササと潅木のヤブである。(中略)〈オサカエ〉から〈ボーギのキビレ〉まで独りで縦走するには、かなりの体力と気力が必要である。

桑原良敏「西中国山地」p.115

〈京ツカ山〉の三等三角点を踏んでみたいという人は、細見谷から〈トリゴエ谷〉を登降するのが最も容易である。広見側からは〈コアカ谷〉を登降するのがよかろう。この谷は樹林に覆われておりササが少ない。

桑原良敏「西中国山地」p.116

なお、上記谷名を記した図版原本を、桑原夫人のご快諾を得て、自著「細見谷渓畔林と十方山林道」各ページで転載させていただいている。

今日のコースタイム

甲佐家屋敷跡(26分)広見林道取り付き口(1時間11分)トチノキ(1時間35分)トチノキ(34分)稜線
 小計3時間46分
稜線(12分)トリゴエ谷鞍部(13分)京ツカ山
 小計25分(三角点探索7分を除く)
京ツカ山(35分)コアカ谷源頭
 小計35分
コアカ谷源頭(1時間25分)トチノキ(1時間12分)広見林道取り付き口(21分)甲佐家屋敷跡
 小計2時間58分
総合計8時間10分
 (稜線5分、三角点探索7分、京ツカ山山頂14分を加える、昼食46分を除く)

甲佐家屋敷跡6:44-作業小屋6:56-コアカ谷7:10-渡渉作業7:32-出合7:37-小休止7:47-アシウスギ8:19-トチノキ8:21-小休止8:44、8:55-少し平になる9:11-右岸植林帯9:13-沢伏流9:22-岩の下轟音9:29-ジェット騒音9:31-平部分、右手小谷9:33-小休止9:38、9:42-トチノキ9:56-恐羅漢山を見る10:18-稜線10:30、10:35-トリゴエ谷鞍部10:47-山頂部11:00-三角点発見11:07、11:21コアカ谷源頭11:56、12:42-左から谷13:12-植林帯13:20-右下へ13:23-小休止13:30、13:40-トチノキ14:07-アクシデント14:25-右手沢あり14:41-広見林道15:19甲佐家屋敷跡15:40

広島組集合

西村保夫さん(山毛欅の森の詩)から、五里山系ヤブ漕ぎのお誘いを受け、同行(記録係として)させていただくことになった。

西村さんとは、細見谷・小型サンショウウオ観察会&調査(2002年8月10日)でご一緒しながらすれ違って以来、山の中や勉強会等で幾度となくニアミスを繰り返し、その度にメール交換をするというお付き合いが続いていた。今日やっと念願がかない、いわゆるオフ会となった訳である。

西村さんの他に、谷本さん(装備担当)、奥本さんが加わり、西村さんの車に同乗して、国道186号沿いの旧吉和村大向(美濃木神社-地形図記号あり-の横)から林道大向長者原線に入る。この林道は、2007年春に全線開通したりっぱな舗装道路となっている。オセキガ峠(標高920m台)を越えて下ると、同じく国道186号の旧吉和村中津谷から北西に延びる国道488号と合流(標高820m前後)する。

今日は、この488号がここまでの区間で道路崩壊のため通行止めになったため、林道大向長者原線に迂回したのであった。ただし、通常の場合でも、ここまでは狭い国道488号を無理して通るよりも、この林道を通ったほうがよほど快適である。

さて、国道488号に合流して概ね北をめざす。すぐ右に十方山林道を分けて進み、御境(おさかえ、標高960m台)を越えると、広見川に向かって急傾斜の山腹を斜めに下って行く。三桁国道の典型、実に狭い道路である。対向車が来たらどうやってすれ違うのだろうか。とても自分では運転できそうもない。

道路右手の山側斜面は、切り取ることもできない程の急斜面となっている。反対側の谷を見ると、この道路には石を積み上げて造っている箇所がいくつもあることが分かる。

甲佐家屋敷跡(島根組合流)

国道488号は、広見川合流点まで下る(標高620m台)と、その広見川に沿ってさらに下るため鋭角に左折する。道路右側に駐車スペースがあり、ここを今日の出発点とする。

ヘアピンカーブの内側には、甲佐家屋敷跡の石碑が建っている。広見地区のこの地に屋敷を構えていた関係者が記念に建てたものである。広見地区は、かつて林業で栄え最盛期には80戸が暮らしていたという。しかし、サンパチ豪雪(昭和38年、1963年)を境に離村が相次ぎ、昭和45年に消滅した。

旧広見小学校校舎跡(廃屋)が、国道488号をもう少し下った所に今でも残っている。この校舎は、恐羅漢山スノーボーダー男性7人遭難事件(2008年2 月3日~5日)で、彼らが二晩を過ごし命拾いをした場所として有名になっている。後日の中国新聞記事によれば、その時の焚き火跡も黒く残っているという。

さて、出発地点で、田中幾太郎先生と同行女性一人が島根側から加わり、今日のパーティ合計6名が勢揃いする。田中先生(益田市在住)は、元中学校理科教師であり、ツキノワグマ研究家でもある。田中先生には、我が著「細見谷渓畔林と十方山林道」P.049で、御著「いのちの森・西中国山地」光陽出版社(1995年)から引用させていただいた。その他、十方山 ・細見谷大規模林道問題に関する勉強会等でお教えいただいた事柄をいくつか書き込んでいる。

広見林道からコアカ谷へ入る

今日の当初の予定は、「二軒小屋~十方山林道~マゴクロウ谷~ボーギのキビレ(横川越)~分水嶺(広島島根県境)~京ツカ山」であったが、マゴクロウ谷の水量が多く渡渉困難であろうとして、反対側のコアカ谷から登ることになった。

リーダーは田中先生である。出発にあたって少しお言葉があり、その後、田中先生を先頭に広見林道(未舗装)を北東に向かう。途中左手のヒノキ林の中に、石組みの平な面が段々に続いており、その中の一つに「中の本家屋敷跡」の石碑が建っている。広見地区の住居跡である。ヒノキは、住民が離散した後に植林されたもののようである。

作業小屋を過ぎ、左手に半四郎山登山口を分けて進み、コアカ谷にかかる小赤谷橋(昭和43年10月竣工)を渡ると、標高は690m前後となる。「山歩き」のKさんは、2005年5月8日の山行(イビセン谷…ヨコガ谷…コアカ谷…京ツカ山)で、コアカ谷を登っている。GPS軌跡によれば、ほとんど沢の中を進んでいるようである。

さて我々は、コアカ谷右岸の少し尾根状になった場所に踏み込む。潅木の中を少し行くと、炭焼きの石組みが残っていた。今までも幾つか見たことのあるものと同じで、直径数mにわたって地面を少し掘り下げ石で囲んだものである。

しばらくして右手に進み、水量豊富な沢に近づいた。その後、歩きやすい方の沢岸を行くために、何度か渡渉を繰り返した。渡りにくいところでは、河原の石を置き直したり、木を切って杖の代わりにしたり、長い枝を川に渡して手摺り代わりにしたりと、田中先生はよく切れるノコギリを使って大忙しである。70歳に手が届く年齢になって益々お元気な田中先生であった。

コアカ谷は、左横に844mピークを見るころから一層傾斜がきつくなり、山頂手前からやや緩やかとなる。小休止の度に振り返ると、半四郎山が大きく、その左奥に向半四郎、右奥に広見山、そして最後には、旧羅漢山そしてその後に本羅漢(恐羅漢山)までも頭を出すようになる。

コアカ谷は伐採されている。時々潅木が行く手をさえぎるものの、通行に著しい困難をきたすことはない。そうした中で、トチノキの大木が2本残っていた。左手844mピーク下の標高概略800m(幹周り4m57cm)、標高1070m付近(幹周り5m00cm)の2本である。いずれも左岸にある。

上のトチノキには、小穴(空洞-ウロ)が空いており、顔を近づけると冷たい風が吹き下ろしてくるのが分かる。ちょうどクマが冬眠するのによさそうな空洞である。しかし、穴の位置が低すぎる(地上1m以下)のでクマが入ることはないだろうという。なお、トチノキは今まであまり材として重要視されることがなかったため、この辺りで巨樹として残るのはトチノキが多いそうである。

小休止8:44で進行方向173度。左手に小さな沢があり、左手尾根はヒノキ+スギ植林帯となっている。出発後、右岸に渡り雪の側を上がる。左岸に移り、やがて雪を踏んで歩くようになり、沢は雪の下にもぐって伏流水となる。しばらくすると、岩の下から轟音が聞こえてくるようになる。伏流水が流れる音である。それらにまじって、空からはジェット戦闘機のものらしい爆音も聞こえる。米軍の演習は西中国山地で行われることが多い。

右手小谷9:33(標高950~960mくらい)は、一本西の谷であるジョシ谷へ至るものである。左へもほんの小さな谷が分かれているように見える。稜線下で水が少し流れている箇所がある。手に一滴づつ溜めて飲む。うまい。その側で、バイケイソウ(コバイケイソウ?)がある、と一人が指差して言う。

我が著「細見谷渓畔林と十方山林道」P.144-152では、堀啓子「十方山林道周辺の植物」(『峠』No43:88-96、広島山稜会(2007.3.31))を、広島山稜会および森と水と土を考える会のご了解を得て転載している。(注:峠-たおと読む)

その中のリストに、バイケイソウが記載されている。「山に咲く花」山溪ハンディ図鑑2、山と溪谷社(1996年)P.470-471では、分布は北海道、本州(中部地方以北)となっている植物である。上記本では、コバイケイソウの分布域についても全く同じ記載内容となっている。ただし、私には両者を識別する能力はない。

広島・島根・山口三県境付近は、西中国山地の中心であり、また日本列島の尾てい骨という表現もされている。北に連なる植物の中には、この地域が分布の南西限となっているものも多い。

クマの皮はぎも見た。大きなスギの木の胴周り半分くらいが、高さ1m以上に渡って、するどい爪で引っ掻かれている。蜜を吸うためのものだという。我が著「細見谷渓畔林と十方山林道」P.110では、「植えてから20~30年物が被害に遭いやすいというが、もともとクマは針葉樹には興味がなかったはずなのだが」としている。 しかし、クマは針葉樹の蜜にはかなり興味を示すようである。

縦走路~京ツカ山三角点(往復)

稜線には、見上げる沢のやや右手を這い上がった。標高1140mくらいの位置だろう。そこから230度に丸いピークを見る。1158mである。めざす京ツカ山1129.7mは、その右手前にあるはずだが、現在位置より少し低く藪の向こうに隠れている。

稜線上では、チュウゴクザサが密集している。その中を一列になって押し進む。やや右手へ回り込んで、左へ巻き込みながらゆるやかに下ると、トリゴエ谷の鞍部に至る。ミズナラの高い木が何本もあり、見上げるとクマ棚、そしてまたクマ棚、まさにクマの採食場(楽園)である。帰りの登山道上では、小さな黒いクマの糞も見つけた。昨秋のものが雪の下で保存されていたものという。体重50~60kgくらいのクマのものだろう、あまり大きなクマではないともいう。

京ツカ山山頂部に至る。京ツカ山には五里山系唯一の三角点がある。ここまで来たら、何はともあれ、その三角点の石柱を見つけなければ。ところが、あたり一面の藪である。しかも、山頂部はだだっ広い。どこが一番標高が高いかも定かでない。それでも粘って、やっと三角点を見つけることができた。縦走路上近くにある松の木の南西方向になる。

三角点から数メートル離れた所に標識がある。社団法人日本山岳会創立100周年記念事業の一つである「中央分水嶺踏査」時のものだという。京ツカ山付近の調査は2005年3月20日に行われており、報告書によると、京ツカ山の三角点は「積雪2mのため未確認」とある。GPSで確認した位置にプレートを付けたもののようである。GPSには数メートルの誤差があるとされている。その意味では、非常に正確に歩いていることになる。

昼食は、コアカ谷源頭にあたる標高1140m台の小ピークまで引き返してとった。装備係の谷本さんが鎌を取り出し、ササを刈って皆の坐る場所を確保する。実は、翌日曜日は雨が降りそうだということで、予定を一日繰り上げた。うす雲はあるものの晴天、寒さを感じることはない。360度の大展望のなかで、ゆったりとした時間が流れていく。予定変更は大正解であった。

カシミール展望図を描くならば、京ツカ山よりもこちらの方がよい。吉和冠山、寂地山、額々山などの広島・島根・山口三県境付近(日本列島の尾てい骨)をはじめ、いつまでいても見飽きない風景が広がっている(展望図未作成)。冠山の左裾稜線上には、クルソン岩が飛び出してはっきりと見えている。そして、北東から南東にかけて、眼前には、細見谷の向こうに十方山~十方山南西尾根が大きい。

コアカ谷左岸尾根を下る

下山開始、雪を踏んで下る。雪が緩んできたせいか、足を踏み抜く回数が多くなってきた。ほとんど全員が踏み抜いている。深いときには膝まで埋まってしまう。 雪の下は小さな岩海状態になっているようである。足を痛める危険性が高い。西側の尾根に逃げて下る。下の大トチノキの所で再び沢へ下りる。

途中アクシデントがあり、西村さんが三角巾を取り出す。左手首の骨折かもしれない。谷本さんがノコギリで適当な長さに木を切り、負傷者の左手に添えて西村さんが包帯をまく。奥本さんには、歩き始めてまもなく、帽子のつばなどに貼る虫除けシールを分けてもらった。皆さん用意がいい。

私はいつもの無手勝流である。今回は、ヤブ漕ぎということで、スパッツ、軍手必須の連絡をいただいていた。スパッツは、普段全く付けることはない。登山前の装着から手間取ってしまった。締め付け器具の使い方を間違えていたのだ。歩き始めて2時間くらい経って、やっとそのことに気がついたという始末である。

そうした私に、帰りの車の中で、来春3月に同じメンバーで二軒小屋から登りましょうとお誘いを受けた。ヤブが雪の下に埋まる時期の方が歩きやすいのだそうである。一日楽しませていただいた上にありがたいお話である。

西村さんには、我が著「細見谷渓畔林と十方山林道」P.119でご登場いただいている。そして、その我が著をホームページで大きくご紹介いただいている。西村さんにも「山毛欅の森の詩」ブナの森出版(2003年)があり、互いの著書を交換している。

十方山・細見谷大規模林道問題を考える

帰り道、十方山林道の吉和西側を見るため、車を止めてもらい、皆で歩いた。
2006年11月に着工(拡幅舗装工事)した部分は既に完成している。きれいに舗装され、超急斜面の法面には茶色の土が吹き付けてある。草の種がいっしょに吹き付けてあるはずだが、うまく付くだろうか。コンクリート壁にはなっていないようだが、大雨などで崩れることはないのだろうか。

実は、林道の拡幅舗装工事は、入口からしばらく入って右に曲がった所から始められている。したがって、入口からは工事の実態がよく見えないようになっている。また、廿日市市ホームページ内「緑資源幹線林道事業」のページでは、今日現在でも、〈平成18年度吉和西側3.7キロと二軒小屋側3.8キロの拡幅部分の一部に工事着手予定〉となっており、工事が実際に着手されたことを市民に広報することさえ怠っている。

緑資源機構は廃止と決まっているはずだが、細見谷大規模林道工事は、まだ中止と決まった訳ではない。大規模林道工事そのものはどこへ行くのであろうか。今後の動向を注意深く見守る必要があるだろう。

田中先生は、「十方山林道(細見谷林道)は地道(未舗装)のまま残した上で、通行止めにして、自然観察などで活用すべき」との持論を改めて強調された。そのとおりだと思う。森と水と土を考える会では、今年も各種のイベントでそのことを訴えていく予定にしている。

田中先生には、細見谷のことを始め、今日一日を通して多くのことを教えていただいた。上記文章中では、その都度お名前を明記していない箇所も多く含まれている。

コアカ谷とは、小赤谷(小さな赤い谷)であり、その昔このあたりに鹿が多かったころ、その鹿を捕まえて解体するときに出た赤い血を意味するという ことも教えていただいた。鹿鉾 (しかほこ)という道具が使われており、田中先生の30歳台のころには、古老からそうした話を直接聞く機会もあったそうである。

そして、大赤谷とは、かつての匹見・吉和往還のうち、ボーギのキビレ(横川越)に至る匹見側の谷をいう。田中青年が幾度となく通ったその道も今はほとんど消失しているらしい。

広島・島根県境のこの辺りの尾根には踏み跡すらない。もちろん道標もない。歩ける人が歩ける時に歩いて楽しめる自由な空間があるだけである。細見谷大規模林道工事が中止になり、この辺り全体が保護地区になったとしても、入山規制をするといったことはしないでほしい。

白神山地は世界遺産登録後、入山規制をめぐって意見の対立が続いている。広島・島根県境のこの地域は、入山規制などしなくても入れる人しか入らない山域である。 遊歩道などつけることなくこのままの状態で残して、クマの楽園(サンクチュアリー)として静かに見守ってやることが一番と考える。

安芸国佐伯郡の山々

中四国地方の百名山は、大山(鳥取)、石鎚山(愛媛)、そして剣山(徳島)の三座しかない。西中国山地は、百名山(深田久弥)のみならず、二百名山(深田クラブ)にも入らず、さらに三百名山(日本山岳会)からももれている。それでも人々をひきつけてやまない何かがある。

広島・島根県境尾根は、私が今最も関心を持っている「安芸国佐伯郡の山々」(瀬戸内海から西中国山地まで)に含まれていることに改めて気が付いた。そこで、分水嶺ヤブ漕ぎ個人登山をやってみたくなった。少しづつ進めば何とかなるだろう。

こうして、今日また一つ楽しい思い出が加わり、夢を広げることのできた有意義なオフ会であった。感謝!!