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細見谷渓畔林と十方山林道

旅する巨人・宮本常一、雪の細見谷を行く

十方山林道(細見谷林道)は、広島・島根県境尾根の広島県側にある谷(細見谷)を通っています。そして、県境尾根の向こう側(島根県)にも谷(広見谷)があります。戦前あるいは江戸時代から、この安芸・石見国は国境尾根のボーギのキビレ(横川越)で結ばれていました。その昔には、双方の村が分担を決め、それぞれ責任を持って草刈りなどをして、踏み跡を維持していたものと考えられます。

旅する巨人・宮本常一が、戦前の1939年11月30日(昭和14年)、雪の中を細見谷(広島県)から広見谷(島根県)に抜けています。その時通ったのも、ボーギのキビレ(横川越)です。十方山林道の建設は戦後のことであり、当然、十方山林道のできる前の話です。

このページの目次です

宮本常一著作集25『村里を行く』

この時の紀行文は、『村里を行く』三国書房(1943年)として、その他数編と一緒にまとめて出版されています。現在では、未来社版の宮本常一著作集25『村里を行く』(1977年)で読むことができます。

ボーギのキビレ越え当日分は、そのうちの「土と共に」(pp.141-231)の一項である「雪の峠」(pp.210-212)が該当しています。桑原良敏は、その”雪の峠”について、以下のような書き出しに続けてその大部分を引用しています。

「宮本常一氏は、昭和十四年十一月三十日に横川二軒小屋より水越峠とこの県境の峠を越えて広見へ抜けている。氏の著書「村里を行く」に次のように書かれている。・・・(宮本常一著作集25未来社版より)」。(桑原良敏『西中国山地』(1997年復刊版)溪水社p.79)

宮本常一は、雪の中を苦労しながら進んでいます。(以下、宮本常一著作集25未来社版pp.210-211から引用)

—以下引用、ここから—

横川の谷は東北から西南へくい込んでいる。(一部略)
横川から奥、古屋敷、二軒小屋などをすぎて行く。(一部略)
雪は次第に深くなった。(一部略)
村をはずれると雪が急に深くなった。(一部略)
雪の中に杖をたててみると一尺ばかりはある。(一部略)

二軒小屋のはずれから峠の頂上までは十〇町ばかり、それが峠というほどの坂ではなくて平坦に近い谷間の道なのだから、雪がなければ無造作に越えられるのである。今朝ほどからどうしてもこの峠をこえてみたいと思ったのは峠の名にひかれたからで、傍示峠というのがその名である。傍示というのは境のことで、関西一円に今も未だ用いられている。そしてこれを地名とするところも多い。この傍示は山県郡と佐伯郡の境を指しているものであろう。(一部略)

ようやくにして峠の上に立った。そこからしばらく下り、また登るのである。あたりは栃、楢、欅などの密林で、道は僅かに足をふみたてるほどのものである。雪はもう二尺もあった。(一部略)

峠から次の峠まで二時間もかかったであろう。(後略)

—以上引用、ここまで—

紀行文では、以下、広見谷側(島根県)の記述が続きます。県境尾根の向こうにも集落があり、踏み跡のあったことが分かります。

水越峠と横川越(ボーギのキビレ)

紀行文に出てくる最初の峠は水越峠(広島県内の山県郡と佐伯郡の境)のことであり、次の峠が横川越(ボーギのキビレ、広島・島根県境)です。水越峠のことを傍示峠としているのは、宮本の思い違いと思われます。

桑原はそのことについて、広島・島根県境の峠のことを「横川の人が〈ボーギのキビレ〉と呼んでいる」のを聞いて、広島県の山県郡と佐伯郡の境の峠(水越峠)のことを「〈傍示峠〉と一般化したのであろう」としています。

なお、横川越(ボーギのキビレ)については、益田市(島根県)在住のクマ研究家である田中幾太郎さん(元中学校の理科教師)が高校1年生の時(昭和29年、1954年)、博物学の先生に連れられて初めて細見谷(広島県)に入ったルートとして、私たちは何回も興味深いお話を聞いています。

注:このページは、電子書籍『細見谷渓畔林と十方山林道』アマゾンKindle版(2017年3月6日)の一部です。

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