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西中国山地と坊がつる讃歌
廣島高師「山男の歌」は、「坊がつる讃歌」(歌:芹洋子)の元歌として知られています。
「山男の歌」では、1番(序節)と6番(終節)の間の2番から5番まで、広島の山の四季(春・夏・秋・冬)を順番に歌い込んでいます。そして、「坊がつる讃歌」1番として、「山男の歌」2番(春、残雪の頃)がほぼ原形のまま採用されています。注:廣島高師=広島高等師範学校
「西中国山地は本州の西南端であり、標高も低いので、雪は積もらないだろうと思っている人は意外と多い。それは認識不足であって」(『西中国山地』p.216)、三八豪雪時(1963年冬)の積雪量は、西中国山地の平野部でも約2m近くあり、山頂部では350cm以上、中には5m以上を記録した山域がありました。
廿日市市吉和集落の中心は、吉和盆地(標高約550m~650m)にあり、市垣内四等三角点(廿日市市吉和支所隣)の標高は593.4mです。集落の北側には、西中国山地(山頂部の標高約1000m~1300m前後)が連なり、世界有数の豪雪地帯である日本海側気候の要素を有する地域となっています。
豪雪地帯対策特別措置法(1962年、昭和37年制定)によれば、広島県では、中国山地沿いの全地域が豪雪地帯に指定されており、その中で、廿日市市(旧吉和村のみ指定)は全国の最西端地域となっています。
『吉和村誌』(全2巻)第一集によれば、吉和小学校では、1963年(昭和38)の豪雪(いわゆるサンパチ豪雪)により校舎2階が使用不能となった(同上p.836)こと、あるいは、吉和中学校でも、1959年(昭和34)積雪のため臨時休校(同上p.839)、1963年(昭和38)豪雪のため臨時休校(同上p.839)の記事がみえます。
また、1963年(昭和38年)1月31日の積雪量は1m97cm(同上p.46)に達し、除雪作業がはかどらず、2月4日に21日ぶりにバスが開通した(同上p.50)とあります。そして、2月15日には、災害救助法の適用(同上p.857)を受けています。
『吉和村誌(第一集)』p.6は、「(吉和地域の)年平均気温は沿岸の広島域に比べて五度前後低いが、問題は最低気温にあって、沿岸部が零度前後であっても零下二十度を記録する事もある。従って、降雪量も多く、冬は根雪になって、山では四、五月まで消えない年も少なくない」と述べています。
実際、大雪だった2006年(平成18)の5月連休中に、私自身が、十方山林道最高点の水越峠(標高990m台)付近一帯で約30cmの残雪を経験しています。
西中国山地と三八(さんぱち)豪雪
気象庁ホームページによれば、「昭和38年1月豪雪」の項で、「12月末から2月初めまでの約1か月にわたり北陸地方を中心に東北地方から九州にかけての広い範囲で降雪が持続した。冬型の気圧配置が続く中、前線や小低気圧が日本海で発生して通過したため、平野部での降雪が多くなった。最深積雪は福井で213cm、富山186cm、金沢181cm、伏木(富山県高岡市)225cm、長岡(新潟県長岡市)318cmを観測した」と述べています。
同ホームページ添付の「期間降雪量(センチ)」を示した全国地図(最大500cm以上まで段階的に表示)を見ると、西中国山地は、瀬戸内海地域と同じく降雪量”なし”、あるいはその一つ上の段階の”100cm以下”となっています。しかし実際には、吉和集落(標高約600m)においても積雪量1m97cmを記録しており、3週間もバス便が不通になったたのです。
三八豪雪について、『西中国山地』p.216をみると、「最多積雪日である昭和三十八年二月五日の中国地方全域の積雪図を作って見た。『水文気象』に記録されている中国地方の一九二観測地点の積雪量をプロットして画いたものである。広島を始め瀬戸内海沿岸部は積雪がないのに、西中国山地の恐羅漢山、苅尾山頂は五メートル以上の積雪量があった」と述べています。
広島県廿日市市では、直線距離にして25kmくらいしか離れていない地域同士が、一方は豪雪地帯(西中国山地)、他方は無雪地帯(瀬戸内沿岸)というように隣り合わせに存在しているのです。
三八豪雪の頃、私は広島市西部(旧・佐伯郡五日市町)の瀬戸内沿岸部に住んでいました。そしてそこでは、毎朝起きるとうっすらと雪が積もっており(2~3cm以下)、日が差すとすぐ消えてなくなるといった日が、何日か続いた年があったように記憶しています。
一方、新潟市郊外の平野部出身の妻は、昭和38年の冬には毎日自宅の二階から出入りしていたと言っています。
西中国山地のスキー場
『戸河内町史(地理編)』p.286は、「天然の降雪で概ね2~3カ月滑走期間のあるスキー場が立地している地域としては、ここが南限であるといえよう(正確には「積雪南西限地域」というべき)」として、広島県最高峰の恐羅漢山(標高1346.4m)に広島で初めてスキー場ができたのは、昭和初期の頃で、1967年(昭和42)には、この地域に初めてリフト(チェア式)を伴う近代的スキー場が登場したことなどを紹介しています。
恐羅漢山は、吉和地区(廿日市市)の北方(安芸太田町)にあたっています。そして、吉和地区にも本格的スキー場が二つあります。女鹿平山1082.5mと、”もみのき森林公園”(小室井山1072.2m南面)のスキー場です。
四国・九州のスキー場をみると、石鎚(愛媛県)、剣(徳島県)、そして九重(大分県)などでも冬期2~3か月間リフトが運営されています。しかし、その数は地域ごとに1~2か所に限られています。これに対して、西中国山地では、広島県側にざっと数えて10か所以上のスキー場が集中して存在しています。吉和地区のスキー場が、その西中国山地最西南端のものであることは間違いありません。
西中国山地の人口動態(吉和地区の場合)
広島県廿日市市吉和小学校ホームページによれば、「人口の動きは,昭和25年の2,673人をピークとして昭和30年ごろから,国の高度経済成長とあいまって,人口の減少が目立ち始め,昭和38年の豪雪以降離村がますます激しくなり,「過疎化現象」が進み,平成15年2月未現在世帯数403世帯,人口842人である」。(2006年12月閲覧)
ただし、『吉和村誌(第一集)』p.821の”吉和村の人口推移”によれば、1945年(昭和20)に3,101人という最大人口が記録されています。いずれにしても戦後一貫して人口は減少しています。
吉和小学校ホームページ及び『吉和村誌(第一集)』p.836によれば、平成18年度(2006年度)児童数30名に対して、過去最大の児童数は383名(昭和34年度、1959年度)となっています。いわゆる団塊の世代一期生が小学校6年生の時ということになります。(参考:1960年の吉和村人口、2,377人)
注:このページは、電子書籍『細見谷渓畔林と十方山林道』アマゾンKindle版(2017年3月6日)の一部です。